LOGIN直之という婚約者がいるのだ。
淳を選ぶ未来は、もう二度と訪れることはない――
そう思った途端、胸の奥がずきりと痛んだ。
「……わかったわ」 瑠理子は小さく答えた。淳がこちらを見る。「なにがです?」
「近づかないでって言ったでしょう」
「……はい」
「だから、わかったって言ったの」
なるべく平静な声を出したつもりだった。
でも、自分でも分かるくらい、落胆した声になった。淳も何かを感じ取ったのか、すぐには返事をしなかった。
雨だけが傘を叩いている。「……別に」「え?」
「そんな顔してまで、離れなくてもいいです」
「どんな顔よ」
「今にも泣きそうな顔」
「してないわ」
「してます」
午後九時二十分。 瑠理子が静かに自室を出ると、廊下の突き当たりに淳が立っていた。黒いジャケットに、動きやすそうなパンツ姿。いつものように整った顔をしているが、その表情には隠しきれない緊張が滲んでいる。「準備できましたか?」「ええ」 瑠理子が頷くと、淳はその手にある小さなバッグを見た。「それだけですか?」「それだけって?」「もっと色々持ってくるのかと思いました」「何を持っていけばいいのよ。武器とか?」「持ってたら逆に怖いですよ」「失礼ね」 こんな時なのに、いつもと同じようなやり取りをしてしまう。 けれど、それが少しだけありがたかった。緊張で強張っていた身体が、ほんの少し緩む。「……お嬢様」「何?」「今ならやめられますよ」「またその話?」「倉庫まで来る必要はありません。俺一人で――」「行くわ。何回言わせるの?」 瑠理子が睨むと、淳は諦めたようにため息をついた。「わかりました」淳はため息をついた。「ただし、約束してください」「何を?」「危ないと思ったら、すぐ逃げること」「淳もね」「俺がお嬢様の話をしてるんです」「私もあなたの話をしてるの。何かあったら一緒に逃げる。これなら文句ないでしょう?」「ありますけど」「却下」「まだ何も言ってません」「顔に書いてあるもの」 淳は困ったように笑った。「本当に頑固ですね」「誰のためだと思ってるのよ」 ぽろりと出た言葉に。 二人とも黙った。 瑠理子は慌てて視線を逸らす。「と、とにかく行きましょう。時間なくなるわよ」「はい」 淳も何も聞かなかった。 それでも、玄関へ向かって歩き出した彼の耳が、僅かに赤く
やはり父を失脚させたい二郎が犯人なのか――? そう考えると、これまでの出来事が不気味なほど繋がっていくように思えた。 淳を海原グループへ誘ったのも二郎。 父・義昭が昔、会社で何をしていたのかを淳に話したのも二郎。 そして今、まるで淳が父を疑うよう仕向けるかのように、過去の資料や音声が次々と現れている。 けれど。(まだ決めつけちゃ駄目) 瑠理子は自分に言い聞かせた。淳に「真実が分かるまで誰かを憎まないで」と言ったばかりなのだ。 自分だけが、証拠もないまま二郎を犯人だと決めつけるわけにはいかない。 まずは確かめる。 今夜、自分たちを呼び出した人物が何を知っているのか。そして、何をさせようとしているのか。「準備しましょう」「はい」 淳とふたりで倉庫に行くために、瑠理子はあらゆるてを打つことを考えた。 普段通り仕事をして、食事をして、自室に戻った。 気温は寒くもないのに、震えが止まらなくて瑠理子は黒いカーディガンを羽織った。 準備といえども、それほどのものはない。外出用のバッグへスマートフォンと財布を入れる。モバイルバッテリーも入れた。 瑠理子はスマートフォンを握って連絡先を開く。 御堂直之。 一瞬だけ指が止まった。 こんな時まで彼を頼ることへの罪悪感があった。愛してもいないくせに、都合のいい時だけ頼るなんて、浅ましい。 それでも、一番大切なのは、淳を守ること。これが最優先だ。他人にどう思われてもかまわない。
『橘義昭夫妻は事故で死んだのではない』『君の両親は殺された』 その二行を見た瞬間、淳の指が震えた。「……殺された?」 声が掠れる。 瑠理子も言葉を失った。 事故ではなく殺された―― たったそれだけの文章なのに、胸の奥へ冷たい刃を突き立てられたような感覚がした。「誰なの……?」 瑠理子が呟く。「こんなもの、誰が……」「わかりません」 淳はすぐに電話をかけようとした。 しかし、番号を押したところで発信できない。「繋がらない」「使い捨ての番号かもしれないわ」 淳が写真を拡大する。 事故当時のものだ。警察や報道機関なら持っていてもおかしくない写真かもしれない。 だがその写真の隅に。「……これ」 淳の指が止まった。「何?」「父の腕時計です」「え?」 潰れた車両のすぐそば。路面に、黒い革ベルトの腕時計が落ちている。「父がずっとつけてたやつです」「じゃあ、本当に事故現場の写真……」「たぶん」 淳の呼吸が浅くなる。 そんな彼を見ていると、瑠理子まで苦しくなった。「でも、だからって書いてあることが本当とは限らないわ」「わかってます」「誰かがあなたを動揺させようとしている可能性もある」「でしょうね」 そう答えながらも淳の目は、写真から離れない。「でも……」 低い声が漏れた。「もし本当だったら?」「淳」「俺、ずっと事故だと思ってたんです」 唇を噛
それは淳が大人になるまでに、何度も聞いた声だ。父が亡くなってまだまもないのに、懐かしささえ感じる。 叱られた時も。 褒められた時も。 朝、学校へ行く自分を見送ってくれた時も。 記憶の中にある父親の声が、今ここで流れている。 淳は瞬きもせず、スマートフォンを見つめていた。『資金は、いくつもの関連会社を経由している。偶然とは思えない』 少し雑音が入る。『この金が最終的にどこへ流れているのか、もう少し調べる必要がある』『だが――』 一瞬、声が途切れた。 そして。『上から、これ以上調べるなと言われた』「……!」 淳の表情が変わった。『理由も説明されていない。ただ、この件には触れるなと。それだけだ』「上って……」 淳が小さく呟く。一郎も黙って音声を聞いていた。『俺の勘違いなら、それでいい。だが、もし――』 ザザッ、と大きなノイズが入る。 瑠理子は息を止めた。『もし俺に何かあったら、この金の流れを必ず調べてほしい』 そこで音声は終わった。「……」 誰も何も言わなかった。廊下に重い沈黙が落ちる。 淳は画面を見つめたまま、動かない。「父は」 掠れた声だった。「これを録音した数日後に死んだんですよね」「……そうだ」 一郎が答えた。「母も一緒に」「ああ」「事故で」「そう聞いている」 淳がゆっくり顔を上げた。「じゃあ、これは何なんですか? 『もし俺に何かあったら』って」 声が震えている。「父は、自分に何か起こるかもしれないと思ってたってことですよ
考えあぐねていると、役員会議室の扉が開いた。中から一郎が出てきた。「瑠理子?」「お父様!」 一郎はとても疲れた顔をしている。「どうしてここに?」「記事を見て……」「心配するな」 一郎は無理に笑った。「私は何もしていない」「信じてる」 瑠理子は即答した。「絶対に信じてるから! お父様はなにもしていないって。お父様はいつだって、どんな時だって、正しいことしかしていないもの!」「瑠理子……」「誰かが仕組んだんでしょう?」「それを今調べているところだ」 父の言葉を聞きながら、瑠理子は、淳の様子が気になって仕方がなかった。 淳は一郎を見ている。 何を考えているのかわからない。 怖い。 前世のように、また彼が父を憎み始めてしまうのではないか、と。 だから必要以上に父を擁護するようなことを言ってしまった。変に思われなかっただろうか。「淳」「……はい」「お父様は、絶対、不正はしてない。信じて欲しい」「俺に信じろって言われても……何も知らないですから」 冷たい言葉に胸が痛む。 けれど、それは当然だった。 淳はまだなにも知らないのだから。「そうね……」「だから、一郎社長が不正をしたとか、父との関連があるとか、決めつけるつもりもないです」「淳……」「調べれば
「海原さん、大丈夫ですか?」 女性社員に声をかけられ、瑠理子ははっとした。「……大丈夫です」 今すぐ父のところへ行かなくては!! スマートフォンを返し、瑠理子は立ち上がった。「すみません。私、少し席を外します」「はい」 経営企画部を出ると、自然に足が速くなる。途中から、ほとんど走っていた。「お嬢様!」 後ろから声がした。振り返ると淳だった。「どうしたんですか」「お父様が……」「記事ですか?」「知ってるの?」「社内中で話になってます」 瑠理子はまた歩き出した。「お父様のところへ行く」「待ってください」「待てないわ!」「だったら俺も行きます」 足が止まった。「え?」「一人で行かせられないでしょう」「でも……」「その顔で何言ってるんですか」「どんな顔よ」「泣く寸前です」「泣かないけど……でも、ありがとう」「何がです?」「一緒に来てくれるって」「別に」 淳は前を向いた。「俺も気になるだけです」 その言葉に瑠理子はふと淳を見る。 瑠理子は、ある重要なことに気が付いた。 今の淳は何も知らない。 まだ父を憎んでもいない。 海原グループへ入ったばかりで、会社の内部事情すらほとんど知らない。 だからこの事件を起こせるはずがないのだ。 前世で瑠理子は、この不正疑惑も、父を追い詰めた証拠も、すべて淳が仕組んだものだと思っていた。







